2022.02.09

津田永忠|どぼく偉人ファイルNo.03 土木大好きライター三上美絵さんによる「どぼく偉人ファイル」では、過去において、現在の土木技術へとつながるような偉業や革新をもたらした古今東西のどぼく偉人たちをピックアップ。どぼく偉人の成し遂げた偉業をビフォーアフター形式でご紹介します。第3回は「岡山藩の治水・干拓事業」を行った、津田永忠です。

津田永忠|どぼく偉人ファイルNo.03

Before:
繰り返す洪水と凶作に悩まされた岡山城下

宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)が1597年に岡山城を築いたとき、本丸の防御のために、城の北方を流れていた旭川を付け替え(=人工的に流れを変えること)、天然の堀とした。しかし、川を無理に湾曲させたせいで流れが妨げられ、城下はたびたび洪水に見舞われるように。


そこで、陽明学者で治水の見識も高かった熊沢蕃山(くまざわ・ばんざん)が伝えた「川除けの法」に従い、岡山藩士の津田永忠が指揮して旭川の上流に「荒手(あらて)」と呼ばれる越流堤を築き、洪水時には分流して中川へ水を逃す工事を行った。


ところが、これにより岡山城下の洪水は軽減したものの、川幅の狭い中川では分流した水を受け止めきれず、農村の浸水被害はますます激しくなってしまった。さらに、1673年には大洪水が起こり、城下も農村も浸水する大災害となった。それから何年も大凶作が続き、藩の財政も窮迫した。




After:
相反する「治水」と「新田開発」を両立

永忠はこの窮状を救うため、洪水を放流する百間川(ひゃっけんがわ)の開削と、河口部の新田開発を計画。百間川は旭川から分流して児島湾へ続く放水路で、分流箇所には3段に荒手を設けて水流を弱めた。ちなみに、百間川の名称は、2番目の「二の荒手」の幅が百間(約180m)あることに由来する。


貞享の築堤時の分流部周辺のイメージ貞享の築堤時の分流部周辺のイメージ

三段方式の荒手の断面イメージ百間川は普段はほとんど水がないが、洪水時には一の荒手から三の荒手へと順に越流した水で大河になる。3つの荒手を越える間に土砂が取り除かれ、流速も弱まる仕組みだ
(提供:国土交通省 岡山河川事務所ホームページの中の「津田永忠の功績」)


いっぽう、新田の開発には、海を干拓する必要があった。


だが、沖合に新田を造成することは、治水上の禁じ手とされていた。新田が海側へせり出すと、そのぶん陸地が増えることになり、河口までの流路が長くなって洪水の排水能力が落ちてしまうからだ。同じ理由で、内陸にある旧田の排水に支障をきたす懸念もある。同時に、藩の東側を流れる吉井川を南下し、沿岸を通って旭川を遡上するルートで年貢米や物資を城下へ運んでいた舟は、大回りを強いられることになる。


さらには、干拓した後の新田の運営にも難題が立ちはだかる。


まず、米に塩害が及ばないようにするためには、新田へ真水を入れるための用水路を内陸側に設けるとともに、海側には使用後の水を流す排水路を設けなくてはならない。しかし、排水路を海とつなげば、海水が田へ逆流するリスクがある。その給排水をどう手当てするか。


永忠は、大河である吉井川と旭川を東西に結ぶ倉安川を新たに開削することで、まずは内陸に用水と舟運ルートを確保。吉井川と倉安川の間には、両河川の水位差を舟が越えるための「閘門(こうもん)」も設けた。これで、田への給水と舟運の課題はクリアできた。


吉井川と倉安川の間に設けた倉安川吉井水門。現存する日本最古の閘門と言われる。閘門は、舟溜り(閘室)の両側に水門を取り付け、舟が入った状態で片方ずつ開閉することで川の水位差を乗り越える仕組み。「船のエレベーター」とも呼ばれる吉井川と倉安川の間に設けた倉安川吉井水門。現存する日本最古の閘門と言われる。閘門は、舟溜り(閘室)の両側に水門を取り付け、舟が入った状態で片方ずつ開閉することで川の水位差を乗り越える仕組み。「船のエレベーター」とも呼ばれる。
「閘門」については、アクティオノート三上美絵さんの連載記事「ドボたんが行く!」内、「荒川ロックゲートと倉安川吉井水門-(水門的なもん②) 水位の異なる川を渡す『船のエレベーター』」でもご紹介しています。


残るは、洪水調節と田の排水、そして海水流入の問題だ。


永忠はこれに対し、百間川の河口を閉め切る沖堤(防波堤)を築き、その底部を貫通する「排水樋門」を設けることにした。沖堤の内側には「大水尾(おおみお)」と呼ばれる遊水池を造り、満潮時は樋門を閉めて川の水を遊水池に溜め、干潮時には樋門を開いて放流。こうすれば、洪水と田の排水は樋門から流し、海水の流入は沖堤で防ぐことができる。


こうして開発された合計2,800haを超える新田のおかげで人々は飢えから救われ、洪水の不安からも解放された。


岡山大学附属図書館所蔵池田家文庫の「備前国上道郡沖新田図」には、完成後の干拓新田と河川、大水尾、沖堤の様子が描かれている。沖堤の凸印は樋門を表す。大水尾より西側に4つ、大水尾沖堤に5つ、東側に6つあったことが分かる岡山大学附属図書館所蔵池田家文庫の「備前国上道郡沖新田図」には、完成後の干拓新田と河川、大水尾、沖堤の様子が描かれている。沖堤の凸印は樋門を表す。大水尾より西側に4つ、大水尾沖堤に5つ、東側に6つあったことが分かる
(出典:国土交通省 岡山河川事務所ホームページの中の「津田永忠の功績」)


沖堤の下部には百間川と児島湾をつなぐ樋門が貫通している。満潮時には樋板を下ろして孔を塞ぎ、海水の侵入を防ぐ。干潮時は樋板を上げ、洪水や田からの排水を海へ流す構造だ沖堤の下部には百間川と児島湾をつなぐ樋門が貫通している。満潮時には樋板を下ろして孔を塞ぎ、海水の侵入を防ぐ。干潮時は樋板を上げ、洪水や田からの排水を海へ流す構造だ
(出典:国土交通省 岡山河川事務所ホームページの中の「津田永忠の功績」)


百間川を造ったことで、城下は洪水から守られ、上流部の洪水や新田からの排水もうまく処理されるようになった百間川を造ったことで、城下は洪水から守られ、上流部の洪水や新田からの排水もうまく処理されるようになった
(出典:国土交通省 岡山河川事務所ホームページの中の「津田永忠の功績」)




津田永忠のここがスゴイ! ~ミカミ'sポイント~

Point1:諦めずに工夫を重ね、不可能を可能にした技術力

干拓新田は、名君として名高い岡山藩主、池田光政(いけだ・みつまさ)の悲願だった。だが、家臣であった熊沢蕃山は、旧田の排水が阻害されるという理由で猛反対。計画は頓挫していた。


蕃山が反対勢力の圧力により藩を去った後に頭角を現した永忠は、洪水と飢饉による藩の窮状を見かね、干拓新田の構想を再構築。難題を土木技術の力と斬新なアイデアで一つずつ解決し、見事に大事業を成し遂げた。



Point2:投資効果を緻密に計算した事業経営の才

永忠が持っていたのは、ものづくりの技術だけではない。事業運営にあたっての卓抜した経営視点が光る。例えば、財政難の折、倉安川の開削には既存の用水や小川、沼などを活用し、それらをつなぐことで工事費と工期を最小限にとどめた。これにより、大型重機のないこの時代に、約20kmの運河を1年もかからずに完成させることができた。


また、倉安川の通行税を決める際、児島湾を経由した場合の費用を試算し、その半額以下に抑えた。池田家の古文書には、倉安川が開通して20日間で1,000隻近い高瀬舟が通行したことが記録されている。


いっぽう、永忠は、日本最古の庶民のための学校である閑谷学校(しずたにがっこう)の建設と運営にも携わり、次世代の人材育成にも力を注いだ。藩が財政難に陥ったとしても存続できるように、周辺の田畑を学校田とし、学校の経営基盤を安定させた。閑谷学校は一時期衰退したものの、幕末まで持続し、多くの子どもが学業に励んだという。


今も残る閑谷学校の講堂。学校建築としては唯一の国宝だ。備前焼の赤瓦が美しい今も残る閑谷学校の講堂。学校建築としては唯一の国宝だ。備前焼の赤瓦が美しい
提供:公益財団法人 特別史跡旧閑谷学校顕彰保存会


※記事の情報は2022年2月9日時点のものです。

【PROFILE】
三上美絵(みかみ・みえ)
三上美絵(みかみ・みえ)
土木ライター。1985年に大成建設に入社。1997年にフリーライターとなり、「日経コンストラクション」などの建設系雑誌や「しんこうWeb」、「アクティオノート」などのWebマガジンなどに連載記事を執筆。一般社団法人日本経営協会が主催する広報セミナーで講師も務める。著書に「かわいい土木 見つけ旅」(技術評論社)、「土木技術者になるには」(ぺりかん社)、共著に「土木の広報」(日経BP)。土木学会土木広報戦略会議委員、土木広報大賞選考委員。
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