建機の歴史
2024.11.20
省エネ、自動化の時代。国産建機は安定成長へ(後編)|建機の歴史⑥ 日本の国土開発、災害復興を支えてきた国産の建設機械を、それらが生産された時代背景とともに紹介する連載「建機の歴史」。第6回は、バブル経済のピークへと突き進んでいく1980年代が舞台です。国家的建設プロジェクトが次々と動き出す中、国内メーカーの建機開発はコンピューターやメカトロニクスを高度に取り入れながら、世界をリードする存在へと急成長していきます。
文:萩原 美智子(ライター)
第2次オイル・ショック発生。省エネ・環境保全がますます大きな課題に
インベーダーゲームが流行し、ウォークマンの1号機が発売された1979(昭和54)年、第2次オイル・ショックが世界経済を揺るがした。
発端は1978(昭和53)年1月に起こったイラン革命だ。1980(昭和55)年に始まったイラン・イラク戦争の影響も重なり、およそ3年間で原油価格が約2.7倍にまで高騰。日本国内でも物価が上昇し、経済成長率は減速した。ただ、買い占め・便乗値上げなどが起きた第1次オイル・ショックの経験を踏まえ、国民も冷静に対応したことから社会的混乱が起こるようなことはなかった。
この間、製造業を中心に民間の設備投資が活発化していたため、建設業界は比較的堅調に推移していた。しかし、この時期は1980年代半ばまで続く建設業の"冬の時代"の入口であった。それまで景気浮揚の役割を果たしてきた公共投資もしばらくの間は伸び悩むこととなる。
1979年は、先進国首脳会議(G7サミット)が初めて東京で開催された年でもあった。いわゆる東京サミットである。この会議の主題は第2次オイル・ショックへの対応であり、「石油消費の抑制や石油輸入目標の設定、新エネルギーの開発」などで各国の意見が一致した。
同年2月にスイス・ジュネーブで開催された第1回世界気候会議では、地球温暖化問題が初めて議論され、建機業界においても省エネや環境保全という課題の重要度がますます高まった。
省エネ油圧システムを搭載した油圧ショベルのメカトロ第1号「PC200-3」
1984(昭和59)年、コマツ(株式会社小松製作所)がメカトロ(メカトロニクス)*を駆使した世界初の油圧ショベルとして、重量18t、バケット容量0.7㎥の「PC200-3」を発表した。この2年前に発売した「PC200-2」に続き、省エネや環境問題に対応した機種であった。
*メカトロ(メカトロニクス):メカニクス(機械工学)とエレクトロニクス(電子工学)を組み合わせた和製英語。機械の動きを電子回路によって制御する技術分野を指す。
「PC200-2」には省エネ油圧システムOLSS(Open Center Load Sensing System)が搭載され、非稼働時に自動でエンジン回転数を下げるオートデセル機能によって大幅な省エネルギーを達成していた。
これをさらに発展させ、省エネ油圧システムにマイクロコンピューターを組み込んだ電子OLSSを採用したのが「PC200-3」である。世界初のメカトロを駆使したエンジン制御システムによってエンジンと油圧ポンプを電子制御し、馬力の効率的な使用を可能にした。省エネのみならず低騒音化も実現、レバーを2本に減らすことで操作性も向上した。
バブル経済期が到来。建設業界は一気に繁忙期へ
1980年代半ば、建設業界は数年にわたって続いた"冬の時代"を抜け出した。きっかけはバブル経済期の到来である。
バブル経済期は一般に1986(昭和61)年12月から1991(平成3)年2月ごろまでとされる。この間、国内では空前の好景気が続き、地価や株価は急上昇、個人の経済活動も活発化した。
建設業界では国家的プロジェクトと呼べる大規模な工事が次々と実行に移され、民間の設備投資も回復。1985(昭和60)年に約50兆円だった建設投資額は、1990(平成2)年には80兆円超と急増した。
代表的な国家プロジェクトのひとつが、本州四国連絡橋(本四架橋)をはじめとした大規模な橋梁工事である。本州四国連絡高速道路には3つのルートがあるが、1988(昭和63)年4月には道路と鉄道の併用橋として世界一の長さを誇る「瀬戸大橋」が開通した。また、1989(平成元)年9月には、2層構造の美しい斜張橋である「横浜ベイブリッジ」が開通するなど、いくつもの橋の完成で建設業界は華やいだ。
20年以上にわたる構想期間を経て、1987(昭和62)年に着工されたのが「関西国際空港」だ。海外旅行が自由化された1960年代以降の航空機需要の拡大に対応するもので、大阪湾の泉州沖約5kmの地点に人工島をつくり、そこに空港を建設するという高度なプロジェクトとなった。
1989年5月には「東京湾アクアライン」の起工式が行われた。東京湾の中央部を横断する、神奈川県川崎市と千葉県木更津市を結ぶ全長15.1kmの有料道路で、木更津沖につくられた人工島「海ほたる」は、海に浮かぶパーキングエリアとして大きな注目を集めた。構想が動き出したのは1966(昭和41)年と古く、"土木のアポロ計画"と呼ばれるほど数多くの新技術・新工法が注ぎ込まれるプロジェクトであった。
1989(昭和64)年1月7日、病気でご療養中であった天皇陛下が崩御された。長かった昭和がついに終わり、平成の時代が始まった。
大規模工事の効率化に貢献する超大型ショベル「EX3500」
前述の関西国際空港の建設工事で"超大型"の威力を発揮したのが、日立建機が開発した油圧ショベル「EX3500」であった。
1987年に発売された時点で世界最大級の油圧ショベルで、バケット容量はバックホー時15㎥・ローディング時18㎥と特大。運転者のアイレベル(視点)は6.09mと3階建住宅に匹敵する高さであった。同年に米・ラスベガスで開催された世界最大級の建機展に出展されているが、全製品の中で最大であったという。
機能面では、電子化によるエンジンポンプ同時制御、日立建機独自の自動水平押し出し機能の採用により、作業の効率化が図られた。オペレーターの疲労軽減に結びつく操作性や居住性の向上、エンジンの出力モード切り替えによる燃費向上、騒音の低減なども実現している。
露天掘り鉱山などでも多く使用される超大型ショベルには、過酷な環境下での安定稼働も求められる。日立建機は1979年に発表した北米向けの鉱山用超大型油圧ショベル「UH50」で積み重ねたノウハウと、最新のメカトロの技術を駆使し、「EX3500」の高い耐久性・信頼性を実現した。
軟弱地盤で活躍。日本ならではの環境に適応したブルドーザー「CAT D6H」
雨の多い日本では、軟弱な地盤でも安定走行できる"湿地ブルドーザー"の比率が高く、小型機・中型機のブルドーザーにおいては、全体の70〜80%を占める。この湿地ブルドーザーの第1号となったのが、1986年、キャタピラー三菱から発売された「CAT D6H」であった。
ブルドーザーの走行方式はクローラ式が一般的だが、クローラはシュー(履板)と呼ばれる板を連結して構成されている。「CAT D6H」には軟弱地盤でも沈み込まないよう、広い接地面積をもたせて接地圧を下げた三角断面履板が採用され、横方向の滑り特性や転圧効果にも優れた足回りが実現された。
同機のもうひとつの特徴が、高位置スプロケットの採用だ。トラックリンクやゴムクローラを回転させるための歯車(スプロケット)を上方に配することで、地面からの耐衝撃性の向上やシューの沈み込み防止を実現したのである。ブレードが車体に近くなることから、きめ細か、かつスピーディーな整地作業も可能になった。
動力伝達をモジュール化することで、稼働率は向上し、修理費はダウン。機械の状態を自動で監視する最新のエレクトロニクス・モニタリング・システムも搭載された。
当時、キャタピラー三菱では作業性の向上と機械経費の低減を追求する「DESIGN21」プロジェクトに取り組んでおり、「CAT D6H」はその一環として開発された。クローラのフォルムが特徴的な同機は、1986年のグッドデザイン賞(商品デザイン部門)を受賞している。
都市圏ではインテリジェントビル・ブーム。再開発やウォーターフロント開発も盛んに
オフィスのコンピューター化が進んだ1980年代後半、都市圏ではインテリジェントビル(高付加価値のオフィスビル)建築のブームが起こった。オフィス空間に"情報"という要素を加え、電力・通信・セキュリティなどに配慮した設計が行われた。
都市再開発も次々と着手された。代表的なプロジェクトのひとつが、1986年3月竣工の「アークヒルズ」だ。東京都港区赤坂1丁目の広大な敷地にオフィスビル・ハイグレードマンション・テレビ朝日・サントリーホールなど多彩な施設を包含する、緑と融合した"コンパクトシティ"がつくり上げられた。
また、東京都中央区佃(つくだ)の「リバーシティ21」はウォーターフロント開発の先駆けとなった。隅田川沿いの水と緑に恵まれたエリアにタワーマンション・商業施設・クリニック・カフェ・フィットネスジムなどが集まる街がつくられ、住宅は1988年に第1期の入居を開始。その後も約20年をかけて街として成熟していった。
工事の安全化、効率化に貢献。屋内向けの高所作業車「SV-020」
1987年、愛知車輌(現・アイチコーポレーション)は屋内向けとしては初めてとなる高所作業車「SV-020」を発表した。
インフラ工事からビル建設、トンネル工事など幅広い現場で欠かせない高所作業車。作業床が昇降し、安全かつ効率のよい高所作業をサポートする。
高所作業車の第1のメリットは工事の安全性の確保で、その普及とともに高所で作業する人々の転落事故が大幅に減少した。電力業界でも多用されており、かつては自力で電柱に登って配電工事などを行っていたが、昇降する作業床に乗ることで作業員の疲労を軽減するとともに、感電事故の防止にも大きく貢献した。
第2のメリットは、無足場工法の実現だ。任意の位置に自走で移動できるので、その都度、足場を組んだり解体したりという手間が不要になり、工期短縮とコスト削減につながった。
高所作業車の第1号は1965(昭和40)年、愛知車輌がはしご車をベースに開発した機種だといわれている。やがて他社も参入し、走行装置ではトラック型・ホイール型・クローラ型、作業装置では伸縮ブーム型・屈折ブーム型・混合ブーム型・垂直昇降型など、多様な製品が市場へと送り出されてきた。ブームやバケットに絶縁性能を付加し、感電のリスクを低減しているものもある。
そして、愛知車輌が建造物の内装工事の際の無足場工法の実現を目指して開発したのが、自走式・小型高所作業車の「SV-020」であった。
昇降は省スペースの垂直昇降型。エレベーターに乗り込むこともできるほど小型で、バッテリー駆動式なので電源の取れない場所でも稼働させることが可能だ。汚れのつきにくいゴムタイヤを装備し、それまで屋外だけだった作業範囲を屋内にも拡大させる画期的な機種となった。
アクティオの前身・新電気は、東南アジアでの中古販売をスタート
国家的プロジェクトが次々と進められ、建設業界が繁忙期を迎えた1980年代後半は、アクティオの前身・新電気が手がけていた建機レンタルが大きく普及した時期でもあった。
1970年代から積極的に進めてきた全国展開も功を奏し、1984年度に約98億円だった売上高は、1988年度には約195億円に急伸した。
1980年代、新電気にとって新たな取り組みとなったのが、東南アジアでの拠点づくりだ。1983(昭和58)年、シンガポールにSHINDENKI RENTAL SINGAPORE PTE. LTD.(現・AKTIO PACIFIC PTE. LTD.)、マレーシアにMADURA-SHINDENKI SDN. BHD.(現・AKTIO MALAYSIA SDN. BHD.)を設立した。
当初の目的は、建設需要が旺盛な東南アジア諸国に良質な中古の建設機械を輸出することだったが、その後、東南アジア経済は急成長。建機のニーズも増加したことから、建機レンタルビジネスもスタートし、海外展開の大きな足がかりとなった。
日本の本社では1989年、3年後に迎える創立25周年に向け、CI(コーポレート・アイデンティティー)計画に着手した。建機レンタル事業のパイオニアとしての企業理念や事業の存在価値などを再定義し、社内外に明確に打ち出そうというもので、このタイミングで社名変更も実施。1991(平成3)年5月15日、新電気は現在の社名である「株式会社アクティオ」へと生まれ変わった。
取材協力(敬称略):一般社団法人日本建設機械工業会、株式会社アイチコーポレーション、株式会社小松製作所、日立建機株式会社、日本キャタピラー合同会社
主要参考資料:「日本建設機械工業会30年の歩み」(一般社団法人日本建設機械工業会、2020年)、「大林組百年史」(大林組サイト内)
※記事の情報は2024年11月20日時点のものです。