建機の歴史
2024.05.31
高度経済成長期の建機(前編)|建機の歴史③ 日本の国土開発、災害復興を支えてきた国産の建設機械を、それらが生産された時代背景とともに紹介する連載「建機の歴史」。第3回の舞台は、1960年代半ばの建設現場です。貿易の自由化が進む中、国内各社は海外メーカーに負けじと技術力向上への取り組みを強化。東京オリンピック後も高度経済成長はさらに続き、プロジェクトの巨大化を背景に、国産建機は技術革新の時代を迎えます。
文:萩原 美智子(ライター)
超高層時代の到来。大阪万博も決定し、建設業界は活性化
1964(昭和39)年10月、国民が待ちわびた第18回オリンピック東京大会が開催され、大盛況のうちに幕を閉じた。
その夢のようなスポーツの祭典が終わると、国内経済は一時的に停滞したような状態に陥るが、高度経済成長のまっただ中にあった日本の産業界は約1年で息を吹き返す。建設業界でもダイナミックな投資が続き、現代につながる都市整備も盛んに行われた。
1960年代半ばには超高層ビルの建築ブームが訪れた。1963(昭和38)年に建築基準法が改正され、31mの高さ制限が一部撤廃されたのを受けたもので、日本初の超高層ビルとなった霞が関ビルディング(36階建・高さ147m)、浜松町駅前の世界貿易センタービルディング本館(40階建・高さ162m)、京王プラザホテル(47階建・高さ170m)など名だたるビルが次々と着工された。
1966(昭和41)年には、1970(昭和45)年の日本万国博覧会(大阪万博)開催が決定。道路・鉄道・空港などの公共工事が急増するとともに、建設業界では会場建設の受注競争も始まった。
名神・東名高速道路などの舗装工事で、輸入アスファルトフィニッシャーが活躍
プロジェクトの大規模化や工事の絶対量の増加を受け、施工の機械化はもはや最優先ともいえる課題になっていた。国内の各メーカーも積極的に開発に取り組み、性能面で欧米に立ち後れていた国産建機も大きな進化を遂げていく。
そのひとつが、オリンピック前の高速道路の建設工事などにも導入されたアスファルトフィニッシャーだ。この建機の最大の特徴は、スクリードという機体後部に装備されたT字トンボのような形の機構である。道路の舗装の際、これが路面近くまで降下し、アスファルト混合物を一定の厚さに敷きならしていくのである。
1931(昭和6)年、このスクリードを備えた機械を最初に開発・実用化したのが米国のバーバーグリーン社であった。同社は1940(昭和15)年、今日のアスファルトフィニッシャーの原型といわれる「879A」を発売した。
この879Aを、日本鋪道株式会社(現・株式会社NIPPO)が1953(昭和28)年に2台輸入して国道41号(名古屋~富山間)の施工を行い、1960年代に入ると名神・東名高速道路の舗装工事などにも輸入機が盛んに使用されるようになった。
名神高速道路の工事などでは、879Aと同じバーバーグリーン社から輸入された「SA60」が使用されたが、大卒の初任給が1万円だった時代に1,800万円だったといわれる。アスファルトフィニッシャーは、作業効率の面でも多大なメリットをもたらしたが、均質で美しい舗装を実現する効果は何物にも代えられないものだった。それだけの投資効果が得られたのである。
国産初のホイール式アスファルトフィニッシャー「AF-4S」が登場
輸入機の活躍に刺激され、国内メーカーでも開発への取り組みが始まった。1956(昭和31)年には東京工機(後に三井三池製作所が吸収)がクローラ式で国産第1号の「TK-6」を完成させている。
いっぽう、ホイール式の国産第1号となったのが、1964年にキャタピラー三菱が開発した「AF-4S」であった。
同社は日本有数の建機メーカー・新三菱重工業(現・キャタピラージャパン)と、世界のブルドーザーのシェアの50%を占めていた米キャタピラー社との対等出資によって設立された会社である。
AF-4Sは、タイヤ自走式。バーをスライドさせ、アスファルト合材を作業部に送り込むコンベヤ装置も備えており、全国に普及するヒット製品となった。
また、TK-6の舗装幅員が1.8〜2.4mであったのに対し、AF-4Sは1.6〜3.6mとより広い範囲での調整を可能にした。折しも高速道路など工事の大型化が進んでおり、舗装幅員拡大のニーズに対応したものであった。
タイヤやショベルの性能が向上し、日本製ホイールローダーの基盤がつくられた1960年代
キャタピラー三菱が設立されたとき、建機業界では「とんでもない巨人が出現した」と注目されたというが、実際、両社の技術提携は海外に立ち後れていた日本の技術力を世界トップレベルへと引き上げる契機となった。ホイールローダーもその効果が発揮された、代表的な建機のひとつである。
ホイールローダーとは、タイヤで移動し、土や石をすくって持ち上げ、ダンプトラックへの積み込みなどをする機械。移動のしやすい足回りが特徴だ。リジッドタイプとアーティキュレートタイプがあり、現代のホイールローダーはアーティキュレートタイプが主流である。
現代につながるホイールローダーは、リジッドタイプのものが1947(昭和22)年に米国で生まれ、1954(昭和29)年には、アーティキュレートタイプが同じく米国で開発されている。
リジッドタイプとは、一般的な自動車と同じように、前輪でかじを取り方向を変えるもの。アーティキュレートタイプとは、列車やトラクター・トレーラーのように車体の前後がピンでつながれた状態で分離しており、連結部分を折り曲げることでかじを取る構造のことである。移動時の旋回半径が小さく、掘削力が大きいのが利点だ。
国産で初めて誕生したアーティキュレートタイプのホイールローダーは、1962(昭和37)年、川崎車輌が開発した「KLD5P」であった。そして1967(昭和42)年、キャタピラー三菱が発売したのが「CAT950」である。
CAT950は、フレーム屈折式パワーステアリングで、前後輪が同一の軌道を通る、小回りの利く旋回が可能。さらに長いホイールベース、広いトレッドで安定性に優れ、高い作業性能を実現した。また、容量2.1㎥のゼネラルパーパスバケットをはじめ、排土やスクレープ、くわえ込みなどの作業ができる多目的のマルチパーパスバケット、フォークなど豊富なアタッチメントも装着可能で、性能の幅広さから、名機として数々の現場で活躍した。
1960年代はタイヤやショベルの性能が向上したこともあり、国内の各メーカーが相次いで新機種を発売、本格的な市場形成が進んでいった。現在、日本製のホイールローダーは世界中に輸出され、高い評価を受けているが、この時代にその基盤がつくられたといえる。
油圧ショベルの開発競争がはじまる
日本経済は岸内閣の所得倍増計画により急成長を遂げ、1968(昭和43)年、日本の経済規模はイギリスと西ドイツを追い抜き、資本主義世界ではアメリカに次ぐ第2位の規模に達した。建設業界ではニュータウンなどの大規模な宅地造成、ゴルフ場開発、ダム建設なども各地で行われ、開発ラッシュが続いていた。
そんな中、建機の世界では、油圧ショベルの開発も盛んに進められた。それまで国内のショベルカーはケーブル式が主流であったが、欧米ではすでに油圧式が全盛で、国内メーカーも油圧式ショベルの開発に注力し始めたのである。
ケーブル式がワイヤーロープを使って作動部をコントロールするのに対し、油圧式はアクチュエーターに作業油を注入する際の圧力を動力とする。パワフルかつ狭いスペースでの作業を得意とすること、掘削・破砕から積み込みまで高い汎用性を持つことなどが、油圧式ショベルのメリットだ。
国産油圧ショベルの開発にあたっては、米・独・仏のメーカーの技術協力を得て進める海外提携組と、独自の技術開発を目指す純国産組があった。
国産初の油圧ショベルとなったのが、海外提携組の新三菱重工業が1961(昭和36)年に完成させた「ユンボY35」である。
メーカー | 提携先 | |
---|---|---|
海外提携組 | 新三菱重工業(現・キャタピラー) | 仏)シカム社 |
油谷重工(現・コベルコ建機) | 仏)ポクレン社 | |
日本製鋼所 | 独)オレンスタイン&コッペル社 | |
久保田鉄工(現・クボタ) | 独)ハインリッヒ・ヴァイハウゼンKG社(現・アトラス・コプコ社) | |
小松製作所 | 米)ビュサイラス・エリー社 | |
住友機械工業(現・住友重機械工業) | 米)リンク・ベルト社(現・FMC社) | |
石川島コーリング(現・加藤製作所) | 米)コーリング社 | |
神戸製鋼所(現・コベルコ建機) | 米)ハーニッシュフェガー社(現・P&H社) | |
純国産組 | 日立製作所(現・日立建機) | 自社開発 |
加藤製作所 | 自社開発 | |
古河鉱業(現・古河機械金属) | 自社開発 |
純国産の油圧ショベル第1号は日立製作所の「UH03」
1965年、純国産油圧ショベルの第1号として誕生したのが、日立製作所(現・日立建機)の「UH03油圧ショベル」だ。
バケット容量0.3㎥、総質量8.7t。それ以前の機械の主流であった1ポンプ1バルブ油圧システムに対し、独自開発の2ポンプ2バルブ油圧システムを採用。複合動作の操作性と作業スピードの向上を果たし、ユーザーからも高い評価を受けた。
UH03油圧ショベルは、国立科学博物館が認定する2018年度「重要科学技術史資料(未来技術遺産)」に登録されている。現在、日本の油圧ショベルは世界シェアの70%を占めるといわれるが、油圧システムの採用や2本ブームシリンダの導入など構造的に見ても、UH03は「日立UH油圧ショベル」の土台であるだけでなく、現代の油圧ショベルの原型であるともいえる。
なお、1972(昭和47)年、同社では「UA03水陸両用油圧ショベル」も開発、ほかに類がない水中建設機械として世界を驚かせた。
東京オリンピックの年に機械修理工場をスタート。
お客様からの依頼をきっかけにレンタル業に挑戦
東京オリンピックが開催された1964年、アクティオの創業者で現会長の小沼光雄は、勤めていた大手建設会社を辞め、わずか3万円の資本金で独立。機械の修理工場を始めた。
小沼が主に請け負ったのが、水中ポンプの修理だった。工事中に頻繁に地下水が湧き出てしまう日本の土木・建築現場において水中ポンプは必要不可欠であったが、当時は品質の低い輸入品がほとんど。過酷な現場で使用されるため、わずか1~2時間の使用でオーバーヒートしてしまうことも珍しくなかった。
前職の大手建設会社の機械部でも水中ポンプを担当していた小沼は、故障するたびに現場の工事が止まってしまう状況に不合理さを感じていた。そうした状況をどうにか改善できないかと思案し、今後は改良まで含めた水中ポンプの修理ビジネスが重要な役割を果たすのではないかと考えた。
そんなある日、建設会社から修理依頼が舞い込んできた。しかし、その工事が緊急を要したため、小沼は工場内にたまたま保管してあった水中ポンプを代替機として貸し出し修理を請け負った。かくして、工事も無事終了。小沼はいつもどおりの修理費を請求したが、ピンチを救ってもらった建設会社から、修理費のほかにポンプを貸し出してくれた謝礼を頂いたという。
これがきっかけで、小沼はレンタル業を思いつく。メーカーと交渉して10台の水中ポンプを入手し、新しいビジネスモデルへの挑戦を開始した。
取材協力(敬称略):一般社団法人日本建設機械工業会、日本キャタピラー合同会社、日立建機株式会社
主要参考資料:「日本建設機械工業会30年のあゆみ」(一般社団法人日本建設機械工業会、2020年)、「写真で読み解く 世界の建設機械史 蒸気機関誕生から200年」(大川聰、三樹書房、2021年)、「ホイールローダの基本 得意な作業や必要な免許など」(日本キャタピラーサイト内)、「日立評論」Vol.94 No.05(2012年)
※記事の情報は2024年5月31日時点のものです。