建機の歴史
2024.12.25
環境対応から災害復興まで。多様化する建機へのニーズ(前編)|建機の歴史⑦ 日本の国土開発、災害復興を支えてきた国産の建設機械を、それらが生産された時代背景とともに紹介する連載「建機の歴史」。数年にわたったバブル経済が崩壊し、戦後最大といわれる不況期へと向かう1990年代の日本が今回の舞台です。建機開発においてのキーワードは"環境"と"大型化"。さらに大規模な災害復興の現場でも、建機は重要な役割を果たしていきます。
文:萩原 美智子(ライター)
バブル崩壊。日本経済は"失われた20年"へ
1989(平成元)年11月、28年にわたってドイツを東西に分断していたベルリンの壁が開放された。1991(平成3)年12月にはソビエト連邦が崩壊し、ロシアを含む15の共和国が独立。一方、中東では1990(平成2)年8月、イラク軍と米国主導の多国籍軍による湾岸戦争が勃発するなど、20世紀末の世界はめまぐるしく動いていた。
この時期、日本に訪れたのがバブル経済の終焉(しゅうえん)だ。株価・地価は急落し、景気は後退の一途をたどりだす。企業の倒産が急増し、失業率は上昇。さらに不良債権問題が深刻化し、日本経済はのちに"失われた20年"と呼ばれる時代へと入っていく。
建設業界も不況にあえぎ、1990年代後半になると中堅企業の倒産が増加した。一方、大手ゼネコンにはバブル期に行った不動産投資により多額の負債を抱えた企業も多く、金融機関の債権放棄を受けて経営再建を図る例も相次いだ。
循環型社会へ。コンクリート塊のリサイクル機「BR60 ガラパゴス」登場
1991年、「再生資源の利用の促進に関する法律(現・資源有効利用促進法)」が施行された。循環型社会の実現のための3R「リデュース(廃棄物の減量)・リユース(繰り返し使用)・リサイクル(再生利用)」を推進するもので、建設業界においては解体現場で出るコンクリート塊などの再利用などが求められた。
コンクリート塊は廃棄物として埋め立て処理されることが多かったが、細かく破砕することで、建物の基礎材や道路の路盤材として再利用することができる。
従来、基礎材や路盤材は山から掘り出した天然の岩などから作られていた。それに代えてコンクリートガラの再生砕石を使用することで、自然環境にかける負荷を減らすというメリットもあった。
1992(平成4)年、コマツ(株式会社小松製作所)が発売したのが、コンクリート塊の自走式粉砕機「BR60 ガラパゴス」である。それまで再生砕石の製造は専門のプラントで行われてきたが、本機は自走式であることから、解体現場で処理することができる。
再生砕石は解体後の現場に敷きつめるという用途にもよく使われるが、現場とプラントとの往来が不要なら、時間とコストの節約になるとともに、運搬用のダンプトラックの排出ガス抑制にも貢献する。まさにソリューション提案型の建機として、「BR60」はその後の「ガラパゴス・シリーズ」の先駆けとなった。
建機の排出ガス基準が制度化。世界初のハイブリッドショベルも登場
自動車の排出ガスの中でとくに人間の健康への影響が大きいのが、窒素酸化物(NOx)と粒子状物質(PM)だ。統計によれば、あらゆる自動車が排出するNOx・PMの総量の10%以上が建設機械によるものだったという。
この問題に対し、1991年、国土交通省が制定したのが「排出ガス対策型建設機械指定制度」である。
同制度では、建機の種類やサイズごとの排出ガス基準が設けられるとともに、同省の直轄工事においてはその基準に適った機械を使用することが原則化された。その後も排出量の削減目標を上方修正しながら改訂され、2024(令和6)年現在は第3次の数値が適用されている。
1990年代、環境問題は国境を越え、世界共通の問題となっていった。とくに地球温暖化に対する国際社会の協力は不可欠で、1997(平成9)年12月には「地球温暖化防止京都会議」が開かれた。同会議でいわゆる「京都議定書」が採択され、先進各国の温室効果ガスの削減目標が設定された。
こうした中、1998(平成10)年には、「21世紀に間にあいました。」というキャッチフレーズのもとに、トヨタ自動車が世界初の量産型ハイブリッド車「プリウス」を発売。エコカー時代の口火を切った。
建機の世界でも1999(平成11)年、コベルコ建機がNEDO(国立研究開発法人 新エネルギー・産業技術総合開発機構)からの受託研究事業として、神戸製鋼所と共同で、世界初のハイブリッドショベルの基礎技術開発に着手した。
大きな動力を必要とする建機のハイブリッドシステムの実現には困難が伴ったが、7年の歳月をかけ、2006(平成18)年、ハイブリッドショベルのモニター機「SK70H」の開発に成功。2010(平成22)年には、従来機より燃費を約40%向上させた8tクラスの量産機「SK80H」の販売を開始した。
都市再開発からテーマパークまで、大規模プロジェクトが続々と完成
出口の見えない不況の中にあった建設業界だが、1990年代はバブル期に着手された大規模プロジェクトが続々と完成を迎えた時期でもあった。
そのひとつが、1991年4月に開庁した東京都庁第一本庁舎の移転・建設プロジェクトだ。丹下健三(たんげ・けんぞう)氏の建築事務所が設計を手がけた地上48階建て・高さ243.3mの超高層ビルで、効率化・省力化のために、工場で製造した部材を現場で組み立てるプレキャストコンクリート工法や、床の設備や電気の配管は地上で組み込むユニットフロアなど多くの新技術が投入された。
1993(平成5)年7月には、横浜ランドマークタワーが完成。地上70階建て・高さ296mの超高層ビルで、2014(平成26)年に大阪・阿倍野に高さ300mの超高層複合ビル「あべのハルカス」ができるまで、日本一の高さを誇った。この建設においても効率化を図るために、部材の大型化やユニット化が徹底された。
首都圏では大規模な再開発も行われ、1994(平成6)年10月にサッポロビール恵比寿工場の跡地が「恵比寿ガーデンプレイス」へと生まれ変わった。お台場の臨海副都心でも、1996(平成8)年完成の「FCGビル(フジテレビ本社ビル)」をはじめ、ショッピングモール、オフィスビル、テーマパークなど多くの施設が完成した。
また、1992年には長崎県佐世保市の「ハウステンボス」、1993年には神奈川県横浜市の「横浜・八景島シーパラダイス」や千葉県船橋市の人工スキー場「ららぽーとスキードームSSAWS(ザウス)」など、個性的なテーマパークも誕生した。
横浜ランドマークタワーの建設では1,500t・mのタワークレーンが活躍
前述のような超高層ビルの建設をはじめ、橋梁の主塔工事、ダム工事などに欠かせない建設機械がタワークレーンだ。
タワークレーンとは、高いマスト(支柱)の頂部にクレーン本体を付け、そのクレーンがマストを昇降する建設機械で、高層部で重い部材を吊り上げたり、移動させたりといった仕事をする。
昇降の方式は、クレーンを支える台座ごとマストをよじ登っていくフロアクライミング、マストを上部に継ぎ足しながらクレーンが登っていくマストクライミングの2つがある。
タワークレーンの技術は、1963(昭和38)年、建築基準法の改正で高層ビルの建設が可能になったことから急速に進化した。そして、油圧ポンプ、油圧モーターで構成された強力な動力源を得て、より高層階へとクレーンを押し上げることができるようになった。
近年、タワークレーンの一般的なサイズは高さ150〜250m級の高層ビルでは700t・m*1、大型機は900〜1,000t・mとされているが、1990年に着工された横浜ランドマークタワーの建設では、この工事のために石川島播磨重工業(現・IHI)が日本最大級の1,500t・mの「JCC-1500H」を開発。この巨大タワークレーン4基をフル稼働させ、工事にあたったという。
夜の工事現場でタワークレーンなどの建設機械が赤いライトを点滅しているのを見かけることがあるが、航空障害灯といい、航空機の航行の安全を確保するために航空法によって設置が定められているものである。
*1 t・m:タワークレーンに負荷をかけられる最大荷重(吊り能力)を示す単位。吊り上げ荷重(t)×作業半径(m)で計算される。
建機はさらに大型化。国産最大の吊り上げ能力を誇ったクローラクレーン「SL-13000」
1990年代は建設プロジェクトが大規模化する一方、新規事業においては厳しい価格競争が繰り広げられ、工事の効率化や人件費の抑制が、よりいっそう重要な課題になった。それに伴い、建機もますます大型化が進んでいく。
その一例が、1993年に発売された神戸製鋼所(現・コベルコ建機)のクローラクレーン「SL-13000」である。同社は1984(昭和59)年、現在の主流である油圧式のクローラクレーンを7000シリーズとして開発。そのSHL仕様として開発されたのが、この「SL-13000」だ。
SHLとはSuper Heavy Liftの頭文字で、後方にカウンターウエイト(重り)を追加し、本体の安定度を高めたモデルである。ブームの最大の長さは115.8mもあり、800tという国産として最大の吊り上げ能力を誇った。
不整地も自在に走る、国内最大のオールテレーンクレーン「AR-5500M」も登場
1998年には、タダノがオールテレーンクレーンとして国内最大の「AR-5500M」を発売している。テレーン(terrain)とは英語で地形・地勢のこと。左右各7軸のタイヤを装備し、舗装道路から不整地まであらゆる路面をオールマイティーに走行できることが特長だ。そして、最大550t吊りという大きなクレーン能力をもちながら、小回り性にも優れているので、狭小な場所でも大きな吊り上げ能力を発揮した。
大型化の例としてはほかに、1992年、コマツが世界最大級の129tブルドーザー「D575」を開発。1997年には日立建機が連載第6回で紹介した油圧ショベル「EX3500」のシリーズとして「EX5500」を、2004(平成16)年には「EX8000」を発売した。また、2005(平成17)年、コベルコ建機は超大型ビル解体専用機「SK3500D」を発売。翌年、同機はギネス世界記録に認定される世界一長身のビル解体機となった。
なお、建機は長期にわたって大型化を続けてきたが、1990年代をもってその流れは一段落する。電気ショベル・油圧ショベルは価格面で建設会社のコスト負担の限界に達し、ダンプトラックとホイールローダーはタイヤサイズの限界を迎え、ブルドーザーは大型の需要が減少したことが主な理由である。
阪神・淡路大震災。救援ルート確保のために、発生直後から多数の建機が出動
1995年1月17日未明、兵庫県南部を中心とした広い地域を巨大な揺れが襲った。淡路島北部を震源に、マグニチュード7.3・最大震度7の揺れを記録した阪神・淡路大震災である。
多くの家屋が倒壊し、市街地では大きな火災が発生した。阪神高速道路では635mにもわたって橋脚が倒壊、阪急電鉄神戸線でも夙川(しゅくがわ)・西宮北口駅間の大半の高架が崩壊するなど、直後から甚大な被害が発生した。
これらの現場に真っ先に入ったのが、建設会社の人々であった。「72時間の壁」という言葉があるように、人命救助は時間が勝負。一刻も早く自衛隊・警察・消防が活動し、救援ルート・物資輸送経路が確保できるように、道路をふさいだがれきの除去にあたったのだ。そこで大きな働きをしたのが、ブルドーザーやショベル、クレーンなどの建機である。
その後の建物の復旧や都市機能の回復のプロセスでも、建設会社は長期にわたって大きな役割を果たしていく。阪神・淡路大震災においても多くの会社が復旧に貢献しているが、この大震災後の2000(平成12)年ごろからは、災害時に人的、物的な援助を受けられるよう自治体が民間企業などと防災協定(災害協定)を締結する例も増加した。復旧に役立つ専門技術や知識、重機・建設資材などを保有している建設会社の多くも、この協定を結んでいる。
一方、国土交通省では2006年、識者による「建設機械等による災害対処・復旧支援に関する懇談会」を組織。災害時の機械の活用の仕方や無人化技術の可能性についての提言などが行われた。
アクティオは、現在につながる提案型・コンサル型のレンタルビジネスへ
阪神・淡路大震災の際は、アクティオもレンタル用の建機や発電機をかき集め、被災地へと提供。復旧・復興支援に尽力した。
震災からほどない時期には、復旧への便宜を図るため、神戸市内に六甲営業所も開設。また、2024年10月時点で全国424の自治体と災害協定を結び、災害時の復旧・復興に協力している。整備を万全にした大量のレンタル建機を保有しているので、スピーディーに協力態勢を整えることができるのがアクティオの強みである。
そして、この阪神・淡路大震災の少し前から、アクティオが挑戦を始めていたのが、提案型・コンサルティング型のレンタルビジネスへの移行である。建機をただ貸し出すだけではない、付加価値の高いビジネスの実現を目指した。
折しも多くのゼネコンが"持たざる経営"を選び始めていた。土地・建物・設備などの資産にかかる借入金や経費を減らし、その分、事業資金にゆとりのある、変化への機動力も高い経営を目指すというものである。建機も資産のひとつであり、世の中のこの考え方へのシフトはレンタル業界にとって追い風となった。
取材協力(敬称略):一般社団法人日本建設機械工業会、コベルコ建機株式会社、株式会社小松製作所、株式会社タダノ(国内営業企画部・新堀英樹)
主要参考資料:「日本建設機械工業会30年のあゆみ」(一般社団法人日本建設機械工業会、2020年)、「写真で読み解く 世界の建設機械史 蒸気機関誕生から200年」(大川 總、三樹書房、2021年)「大林組百年史」(大林組サイト内)
※記事の情報は2024年12月25日時点のものです。