どぼく偉人ファイル
2024.08.30
赤木 正雄|どぼく偉人ファイルNo.16 土木大好きライター三上美絵さんによる「どぼく偉人ファイル」では、過去において、現在の土木技術へとつながるような偉業や革新をもたらした古今東西のどぼく偉人たちをピックアップ。どぼく偉人の成し遂げた偉業をビフォーアフター形式でご紹介します。第16回は「近代砂防の父」と呼ばれる赤木正雄です。
Before:カルデラに溜まった土砂が下流で氾濫
富山県を流れる常願寺川(じょうがんじがわ)は日本有数の急流で、大雨が降ると一気に水かさが増し、昔から氾濫を繰り返してきた。さらに、1858年(安政5年)の大地震によって立山カルデラの鳶山(とんびやま)が崩れて土砂が流れ込んでからは、川の様相が一変。土砂によって川がせき止められてできた天然のダムが、発災2週間後と2カ月後の2度にわたって決壊し、土石流が富山平野を襲った。それからは豪雨のたび、カルデラ内に大量に残った土砂が流れ出し、「暴れ川」となった常願寺川の下流域に洪水の被害をもたらした。
明治時代の半ばに、お雇い外国人技師のヨハネス・デ・レーケが常願寺川の河口に放水路を設けたものの、上流から流れてきた土砂が川底に溜まってすぐに川が浅くなり、洪水になってしまう。明治の終わり頃、富山県は下流の被害をなくすために、上流に「砂防堰堤(えんてい)」を建設。しかし、この砂防堰堤も、大正時代の出水によって壊れてしまった。
ついに国は直轄で砂防工事に乗り出し、立山砂防事務所を立ち上げた。その初代所長が、赤木正雄だ。
After:土砂災害がなくなり、水田が豊かに
赤木は、小さな砂防堰堤をところどころにつくっても、富山平野の土砂災害を根本的に防ぐことはできないと考えた。そこで、立山カルデラの出口の部分に要となる強固な砂防堰堤を建設し、全体を安定させる計画を立てた。それが「白岩砂防堰堤」だ。
白岩砂防堰堤を中心とする「立山砂防」ができたおかげで、土砂災害は劇的に減少。富山平野は国内有数の米どころとなり、工業地帯も発展した。
赤木正雄のここがスゴイ!〜ミカミ'sポイント〜
Point1:国土を守る砂防の仕事に一生を捧げた
赤木が砂防の専門家になることを志したのは1910(明治43)年、旧制第一高等学校の学生時代だった。この年の台風で関東地方を中心に大きな土砂災害が起こり、東海道線が御殿場で不通になってしまった。故郷の豊岡から東京へ戻るためにこの電車に乗っていた赤木は、20kmほど先の山北駅まで雨の中を歩いたという。
帰京後に新渡戸稲造校長の「諸君の内一人でも治水に命を捧げ、災害の防止に志すものはないか」という訓示を聞いた赤木は、その瞬間に砂防に一生を捧げることを決心。砂防は、華々しさのない地味な仕事ながら、国土を守るために誰かがやらなければいけない仕事だ。赤木はそこに進んで身を投じたのである。
Point2:山歩きスタイルで全国の源流を調査した「近代砂防の父」
赤木が力を入れたのは、常願寺川流域の砂防だけではない。「水害の防止には、川に堤防を築くだけでなく、上流から土砂が流れ込まないようにする砂防が不可欠である」という信念を持ち、日本全体の砂防事業にまい進したのだ。
現場での赤木は、いつもリュックサックに登山靴という山歩きの格好で、川の源流までさかのぼって徹底的に調査を行った。赤木が砂防事業を手がけたのは、石川県の手取川、岐阜県の揖斐川(いびがわ)、栃木県の鬼怒川、鳥取県の天神川、兵庫県の六甲山など、全国に及んでいる。人々は赤木の功績をたたえ、「近代砂防の父」と呼ぶようになった。
※記事の情報は2024年8月30日時点のものです。
- 三上美絵(みかみ・みえ)
土木ライター。1985年に大成建設に入社。1997年にフリーライターとなり、「日経コンストラクション」などの建設系雑誌や「しんこうWeb」、「アクティオノート」などのWebマガジンなどに連載記事を執筆。一般社団法人日本経営協会が主催する広報セミナーで講師も務める。著書に「かわいい土木 見つけ旅」(技術評論社)、「土木技術者になるには」(ぺりかん社)、共著に「土木の広報」(日経BP)。土木学会土木広報戦略会議委員、土木広報大賞選考委員。