2022.12.21

現在も残るインフラを手掛けた者たちの生涯を伝える「HERO 東京をつくった土木エンジニアたちの物語」―紅林章央さん【自著を語る②】 「自著を語る」では、土木や建築を愛し、または研究し、建設にまつわる著書を出されている方に、自著で紹介する建設の魅力を語っていただきます。第2回は、東京という巨大な都市づくりを計画し、道路や鉄道、水道、橋といった仕事にも生活にも欠かせないインフラを建造するために尽力した土木技術者の活動に光を当てた「HERO 東京をつくった土木エンジニアたちの物語」をご紹介します。著者の紅林章央さんに、執筆のきっかけや執筆にまつわるエピソードをうかがいました。

現在も残るインフラを手掛けた者たちの生涯を伝える「HERO 東京をつくった土木エンジニアたちの物語」―紅林章央さん【自著を語る②】

今も残るインフラが100年も前にできていた衝撃

――本書では東京の街を造った土木エンジニアたちを紹介しています。彼らを取り上げようと思ったきっかけについて教えてください。


私は以前、東京都建設局で働いていました。仕事で道路や鉄道、橋といった都市のインフラを管理するために、それらが建設された当時の資料を探し求めて読んだことがきっかけでした。


平成20年頃、東京都のインフラは「造る時代」から「管理する時代」に変わりつつあり、「東京のインフラを長持ちさせるにはどうしたらよいか」という面が注目されていました。例えば、隅田川に架かる橋の多くは、1923(大正12)年の関東大震災後の復興時に架けられたものです。探してみると、それらを建設した頃の資料が多く残っていました。橋を長持ちさせるには、当時の資料を読んで建造当時の背景を理解する必要がある。そう思って資料を読み込んでいくと、当時の土木エンジニアたちの考え方に衝撃を受けました。


とりわけ驚いたのは、彼らが設計して建造した橋の頑丈さで、きわめて厳しい基準で設計・建設されていることが分かりました。隅田川に架かる橋の多くは、現在の最新の設計基準で造られる橋の約2倍もの重さまで耐えられる造りになっているんです。


橋が建設されたときは、現在のように大量の自動車が走っていたわけではありません。それにもかかわらず、現在の日本の基準よりも厳しい基準で橋を設計して建設したというのは、大正、昭和初期の土木エンジニアたちが、「将来の日本では、アメリカのような車社会になる」ことを想定していたからです。すごいことだと思いませんか。100年も前のことですよ。こうしたエンジニアたちの先見性に衝撃を受けて、彼らがどのような経緯で橋や道路などのインフラを造っていったのかを後世に伝えていきたいと願い、この本の執筆に取り掛かりました。




「橋が苦手な技術者」が「橋LOVEな技術者」になるまで

紅林章央さん


――紅林さんは、これまで橋に関する書籍を多数出版されていますね。橋はもともと好きだったのでしょうか。


正直言って、もともと橋はあまり好きではありませんでした。実は、橋梁は大学の授業の中で一番苦手な分野だったんです。


大学は工学部で土木工学を学び、専攻は都市計画でした。私の地元・東京都八王子市にある多摩ニュータウンのような都市計画に携わりたいと考えていました。ところが、大学を卒業して東京都に就職したら、配属されたのが橋の設計を行う「橋梁設計係」。内示が出た夜には、どうしようかと悩み一晩眠れませんでした。学生時代にもっと橋梁を勉強しておけばよかったと後悔して。


――橋が「苦手」から「好き」になるきっかけは何だったのでしょうか。


きっかけは、東京都にある檜原村(ひのはらむら)に建設する橋の設計に携わったとき。この橋が初めての設計だったのですが、当時私が設計を担当したのはプレストレストコンクリートで造られた全長24mほどの短い橋で、工場で橋桁を造り、それをポールトレーラーで現地まで運び、クレーンを使って設置するという工程でした。


現地で待機していると、細い山道のカーブなどを何度も切り返しながら少しずつポールトレーラーが近づいてくる。運転手や車の誘導をする警備員たち、現場で作業する多くの技術者や職工たちのてきぱきと働く様子、さらに橋が架けられる様を見守り安全な橋が架かることを喜んでいる地元住民たちの様子を間近で見ていて、「自分は、とてつもなくすごい仕事に携わらせてもらっている」と確信しました。その頃からですね。橋の設計が面白いと思えるようになったのは。


――執筆される中でとりわけ印象に残った技術者はいますか。また本をまとめる上でどんなご苦労がありましたか。


印象的だったのは、豊洲(とよす)と晴海(はるみ)を隔てる晴海運河に架かる「晴海橋梁」(1957年竣工)を設計した田島二郎(たじま・じろう)さんのエピソードです。田島さんは、瀬戸大橋やレインボーブリッジなど日本を代表する長大橋(ちょうだいきょう)*の設計を担当された方ですが、田島さんの愛娘の「晴美」さんという名前は、彼が初期に設計した「晴海橋梁」からとったそうです。晴海橋梁は鉄道初のローゼ橋という構造なのですが、小規模ながらアーチ状の美しいこの橋に対して、いかに深い愛情を注いでいたかを感じました。資料を読み込む中で、そんな人柄が分かるエピソードを見つけたときは、うれしかったですね。


1957(昭和32)年に竣工した晴海橋梁(撮影:紅林章央)1957(昭和32)年に竣工した晴海橋梁(撮影:紅林章央)


苦心したのは、本書で紹介した土木エンジニアたちの写真素材の収集です。晩年の写真は見つけやすいのですが、現役時代の写真を掲載したかったので、探すのに苦労しました。例えば、当時最先端だった基礎工法である「ニューマチックケーソン工法」を導入し、永代橋や清洲橋など東京の物流の中枢を支えた橋の基礎を造り上げた白石多士良(しらいし・たしろう)さんという方がいます。白石さんのお写真は、いろいろ探して最終的にご遺族の方から見せてもらった1枚を掲載しました。この写真が掲載されているのは、本書だけだと思います。


*長大橋(ちょうだいきょう):橋の全長が100メートル以上ある橋のこと。




本書の隠れたテーマは「挫折」

――本書を執筆する際に意識されたポイントはありますか。


実は、本書は「挫折」を隠れたテーマにしています。土木エンジニアたちを調べて分かったことなのですが、彼らは誰もが挫折を乗り越えて、今も残るインフラを造り上げていました。


例えば、東京の水道の根幹を造った中島鋭治(なかじま・えいじ)さんは、大学で橋梁工学を専攻していました。米国人の恩師が帰国すると、彼の橋梁設計事務所で働くために東京大学(東京帝国大学)の助教授を辞して米国に渡航するほど、橋の設計を仕事にしたい人物でした。


ですが、留学中に郷里の大先輩で後見役であった東京府知事の富田 鐵之助(とみた・てつのすけ)に、東京市水道改良事業のため日本に呼び戻されると、自身が希望していない水道事業を担当させられることになってしまった。そんな挫折を乗り越えて、駒沢取水塔や淀橋(現在の西新宿あたり)の浄水場、芝と御茶ノ水にそれぞれ配水施設を造るなど、東京の水道の根幹を造っていったのです。彼が設計した水道施設には、取水塔へ通じる管理橋とか、小さいですが秀逸な橋が必ず架けられています。これらからは、青春の思いを断念せざるを得なかった中島の橋への想いが透けて見えるようです。


1924(大正13)年に竣工した駒沢取水塔。2つの塔の間に鉄橋が渡されている、国内唯一の珍しい構造だ(撮影:紅林章央)1924(大正13)年に竣工した駒沢取水塔。2つの塔の間に鉄橋が渡されている、国内唯一の珍しい構造だ(撮影:紅林章央)


神奈川県の都市計画課長や新潟県副知事を歴任した野坂相如(のさか・すけゆき)さんも、大きな挫折を経験しました。野坂さんは1923(大正12)年に東京市に入ってから地下鉄建設計画を手掛けていましたが、東京市が事業を断念して撤退。せっかく造り上げた地下鉄建設計画を手放すことになってしまいました。野坂さんは、1932(昭和7)年に東京市を退職。しかし、野坂さんはその後、神奈川県に異動し、相模原市や横須賀市などの根幹をなす街路・区画整理を立案。これらの大半は今でも残っています。その後戦後には、技官出身者で初めて新潟県副知事に就任します。


今の東京の街を造った土木エンジニアたちは、最初からその道を目指したエキスパートだったわけではない。みんな挫折を乗り越えて素晴らしいものを造っていった。このことを若い技術者に知ってほしいという思いを隠れテーマに込めました。私自身、橋が好きではなかったのに橋梁担当に配属されたことも小さな挫折ではありましたが(笑)。




これからも橋の素晴らしさを伝えていきたい

紅林章央さん


――今後はどのようなことをテーマに活動される予定ですか。


実は、共同執筆による「東京ドボク散歩」(仮題)という書籍の制作が進んでいて、近日中に出版予定です。東京の土木建造物を紹介する内容です。


また現在、明治・大正・昭和初期の絵葉書や写真を使って、岐阜県にある橋を紹介する「ぎふ名橋ものがたり」、日本に存在する変わった橋を紹介する「珍橋・奇橋」、浮世絵に描かれている橋を紹介する「浮世絵を彩った橋」という3本の連載を持っています。この中で、「浮世絵を彩った橋」は今後書籍にしたいと考えています。これからも、あらゆる側面から橋の素晴らしさを伝えたいと思います。


「HERO 東京をつくった土木エンジニアたちの物語」以外にも、「橋を透して見た風景」「東京の橋 100選+100」(いずれも都政新報社)など、橋梁に関する書籍を多数出している「HERO 東京をつくった土木エンジニアたちの物語」以外にも、「橋を透して見た風景」「東京の橋 100選+100」(いずれも都政新報社)など、橋梁に関する書籍を多数出している



■HERO 東京をつくった土木エンジニアたちの物語

HERO 東京をつくった土木エンジニアたちの物語

著者:紅林章央
出版社:都政新報社
発売日:2021年9月28日
詳細はこちら


※記事の情報は2022年12月21日時点のものです。

【PROFILE】
紅林章央(くればやし・あきお)
紅林章央(くればやし・あきお)
1959(昭和34)年、東京・八王子市生まれ。1985(昭和60)年、大学卒業後、東京都に入庁。建設局で奥多摩大橋、多摩大橋などの多くの橋の設計・建設、新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる。橋梁構造専門課長を経て、現在、(公財)東京都道路整備保全公社橋梁担当課長。「橋を透して見た風景」(都政新報社)で2017(平成29)年度土木学会出版文化賞を受賞。「東京の橋 100選+100」(都政新報社)、「100年橋梁」「歴史的鋼橋の補修・補強マニュアル」「日本の近代土木遺産」(いずれも共著・土木学会出版)など。
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