2026.06.17

豊臣秀吉|どぼく偉人ファイルNo.28 「どぼく偉人ファイル」第28回は、水はけが悪く、かつて人が住む都市としては厳しい環境だった大阪の地を、水害に強く、高い物流効率を誇る「水の都」へと生まれ変わらせた豊臣秀吉です。その功績をビフォーアフター形式で紹介します。

文:三上 美絵(ライター)

豊臣秀吉|どぼく偉人ファイルNo.28

Before:攻められにくいが住みづらい泥沼地帯

天下統一を果たした秀吉が、まず本拠地として築いたのが大坂城*だ。場所は、かつて織田信長と敵対した「石山本願寺」があった上町台地の北端。当時の大阪は、北と東を泥沼のような湿地帯に囲まれ、西は瀬戸内海ともつながる大阪湾、中央に上町台地だけが半島のように細長く突き出た地形だった。軍事的な要塞(ようさい)としては一等地でも、人が住む都市としては厳しい環境だ。


* 大坂城:豊臣秀吉が建設した城の名は「大坂城」だったことから、ここでは城についてのみ「大坂」の表記を使用している。


こうした水はけの悪い土地に人口が密集すれば、生活排水がたまり、井戸水が濁って感染症が流行しやすくなる。また、大和川の流路も現在とは異なっており、生駒山地から平野へ直接流れ込んで淀川と合流していた。このため水害が絶えず、大雨が降ると周囲の低地はまたたく間に水没してしまうのだった。


さらに物流の面でも、西からやってくる海の船と北の京都へ向かう川の船が、浅瀬や砂州(さす)に阻まれてスムーズに行き来できず、効率が悪かった。


束立て床組の大引の継手※図はクリックすると拡大表示されます①縄文時代には生駒山地近くまで海が広がっていた ②上町台地の砂州が北へ延び、大阪湾と河内湖に分断 ③大阪湾の海岸線が後退して大阪平野ができ、河内湾も干潟を経て低地となった(出典:水都大阪コンソーシアム




After:城と水路からなる衛生的な「水の都」に

秀吉は1583(天正11)年から、膨大な人員を投入して大坂城と城下町の開発に着手。完成した大阪は水害に強く、高い物流効率を誇る「水の都」へと生まれ変わった。


まず東側の広大な湿地帯を敵が足を取られる防衛線として活用し、城の防御力を高めた。また、淀川の堤防を強固にし、堤防の上を京都へつながる街道とした。さらに、低地には数々の運河(堀川)を開削し、その土砂で湿地を埋め立て、商人のまち・船場(せんば)を築いた。


運河ネットワークができたことで、瀬戸内海の大型船から荷物を降ろし、城下町まで小舟で運べる効率的な物流システムが完成。後の大阪が、全国の物資が集まる「天下の台所」として発展していくことにつながった。


大坂城の内堀と現在の天守閣。天守は1931(昭和6)年に鉄骨鉄筋コンクリート(SRC)造で、模擬復興されたもの。1997年(平成9)年、国の登録有形文化財に指定された




豊臣秀吉のここがスゴイ! ~ミカミ'sポイント~

Point 1:実務派ブレーンの心をつかむ"人たらし"


大坂城築城は、秀吉のアイデアを「実務派のプロフェッショナル」たちが具現化する形で進められた。


総普請奉行(そうふしんぶぎょう/土木工事の総責任者)を務めたのは、実弟の豊臣秀長(とよとみ・ひでなが)。膨大な予算の管理、職人や大名の配置、物資の調達などを極めて冷静にこなす超一流のマネージャーだった。また、敷地計画や堀と道路の配置など、「縄張り」と呼ばれた基本設計を手がけたのは黒田官兵衛(くろだ・かんべえ)だ。官兵衛は戦国時代屈指の軍師として有名だが、実は「築城土木の天才」でもあった。


浅野長政(あさの・ながまさ)や前田玄以(まえだ・げんい)ら秀吉直属の「五奉行」の面々は、実際の道路整備や碁盤の目状に町を区切る「町割り」を担うとともに、「住民による下水掃除の義務化」といった行政ルールを作った。


秀吉はそんな部下たち一人ひとりの才能を見抜き、絶大な信頼を置いて適材適所に配置。失敗をとがめず、成功はほめたたえ、褒美を与えて人心をつかむ。いい意味での"人たらし"だったからこそ、有能な実務家たちが秀吉の周りに集まり、その能力を遺憾なく発揮してくれたのだ。



Point 2:血を流さず土木の力で敵に勝つ


戦国武将であった秀吉は、地形や水の流れ、天候などを読み取り、敵を窮地に追い込む戦術に長けていた。その代表的なものが「水攻め(みずぜめ)」だ。織田信長の命で毛利方の清水宗治(しみず・むねはる)を攻めた戦いでは、足守川(あしもりがわ)の水をせき止めて備中高松城(岡山県)を水没させた。このときの参謀が、黒田官兵衛だ。


またその後、秀吉による紀州征伐の際、鉄砲傭兵集団である雑賀衆(さいかしゅう)が立てこもる太田城の周囲に堤防を築き、紀の川の水を流し込んで水没させたことでも知られる。さらに、小田原征伐の際、石田三成(いしだ・みつなり)を総大将とする忍城(おしじょう)の水攻めも有名だ。忍城は「浮き城」と呼ばれるほどの低湿地帯にあったため、城の周囲に堤を築いて利根川や荒川の水を引き込んだ。


水攻めには、食料や援軍を絶って城を孤立させることで、血を流すことなく敵の戦意を喪失させる目的があった。大軍勢を動員し、短期間で巨大な堤防をつくる高い土木技術と資金力、さらには降雨量と時期など天候を見定める力を兼ね備えていたのが、秀吉のすごいところだ。


※記事の情報は2026年6月17日時点のものです。

【PROFILE】
三上美絵(みかみ・みえ)
三上美絵(みかみ・みえ)
土木ライター。1985年に大成建設に入社。1997年にフリーライターとなり、「日経コンストラクション」などの建設系雑誌や「しんこうWeb」、「アクティオノート」などのWebマガジンなどに連載記事を執筆。一般社団法人日本経営協会が主催する広報セミナーで講師も務める。著書に「かわいい土木 見つけ旅」(技術評論社)、「土木技術者になるには」(ぺりかん社)、共著に「土木の広報」(日経BP)。土木学会土木広報戦略会議委員、土木広報大賞選考委員。
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