2026.06.04

和気清麻呂|どぼく偉人ファイルNo.27 「どぼく偉人ファイル」第27回は、明治維新後まで1000年以上もの長きにわたり、日本の首都であり続けた平安京の造営を行った和気清麻呂(わけのきよまろ)の功績をビフォーアフター形式で紹介します。

文:三上 美絵(ライター)

和気清麻呂|どぼく偉人ファイルNo.27

Before:怨霊(おんりょう)のたたりや洪水に翻弄された長岡京

第50代桓武天皇は784(延暦3)年、平城京から北へ約40kmの地へ遷都し、長岡京の造営に着手した。ところが翌年、造営責任者だった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が何者かに暗殺されてしまう。首謀者と疑われた早良親王(さわらしんのう/桓武天皇の弟)は、無実を訴えながら、淡路島へ流される途中で恨みを抱いたまま絶食死した。


するとその後、桓武天皇の母や皇后が相次いで病死し、皇太子も重病に。さらに、長岡京は大洪水や疫病に襲われた。原因を陰陽師(おんみょうじ)に占わせたところ、早良親王の怨霊によるたたりであるとの結果が出た。


これを受けて、長岡京の北東に位置する葛野(かどの)への遷都を進言したのが、官僚の和気清麻呂だ。北・東・西を山に囲まれ、南北に川が流れる葛野は、風水でいう「四神相応(しじんそうおう)」の理想的な地だった。四神とは、東西南北をそれぞれ司(つかさど)る青龍(せいりゅう)・白虎(びゃっこ)・朱雀(すざく)・玄武(げんぶ)の聖獣を指す。この条件を満たす場所は「気が溜まる」として、都が末永く繁栄すると信じられていた。


古代都城の位置図。桓武天皇は平城京から長岡京を経て平安京へ遷都した(出典:長岡京市




After:優れた都市計画で平安京が「千年の都」に

794(延暦13)年、再度の遷都を決意した桓武天皇は新たな都を「平安京」と名付け、和気清麻呂を造営大夫(建設大臣)に指名した。


清麻呂は唐の都・長安をモデルにした南北約5.2km、東西約4.5kmの長方形の都市を建設。中央南北に「朱雀大路(すざくおおじ)」を貫いてメインストリートとし、その北端に天皇の住まいである「平安宮」を、南端には都市の正門となる「羅城門(らじょうもん)」を配置した。同時に、道路を碁盤の目状に張り巡らせ、町割りを行った。こうした都市計画を「条坊制」と呼ぶ。


清麻呂の死後、国家財政の悪化などによって未完成のまま終わった部分もあったものの、平安京は明治維新後まで1000年以上にわたり日本の首都として機能し続けた。


平安京の条坊制。中央北端の平安宮・朱雀門と、中央南端の羅城門を朱雀大路が結ぶ(出典:公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所




和気清麻呂のここがスゴイ! ~ミカミ'sポイント~

Point 1:権力に屈しない、正義感に満ちた「信念の人」


和気清麻呂といえば、皇位継承をめぐる「宇佐八幡宮神託(しんたく)事件」が有名だ。769(神護景雲3)年、称徳天皇の寵愛を受けていた僧・道鏡が捏造(ねつぞう)した「道鏡を天皇にすれば天下は泰平になる」という神託の嘘に気づき、「皇位は皇統のものが継ぐべきだ」という宇佐八幡宮の真実の神託を天皇の前で報告。激怒した天皇と道鏡の命令で、足の腱を切られたうえ鹿児島の大隅へ流刑にされることになったが、それでも清麻呂は屈しなかった。


もしもこのとき清麻呂が妥協し、道鏡を天皇として認めていれば、現代まで続く日本の「万世一系(神話時代から一つの家系で続いてきたこと)」という皇統の歴史は途絶えていた。命をかけてこの原則を守った清麻呂は「信念の人」と言える。


その後、称徳天皇が崩御すると道鏡も失脚し、桓武天皇の父・光仁天皇が即位して、清麻呂は都へ呼び戻されて名誉を回復。続く桓武天皇からも厚い信頼を得て、平安京造営という大事業を任されることになった。


幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師・月岡芳年の「皇国二十四功」に描かれた和気清麻呂



Point 2:京都の骨格を設計した天才的な土木エンジニア


清麻呂の不屈の精神は、土木事業での失敗を次に生かしたところにも表れている。788(延暦7)年、清麻呂は当時の大和川の氾濫を防ぎ、水運を便利にするために、現在の大阪市天王寺区付近に運河(堀越川)を開削しようとした。台地を東西に掘り抜く、当時としては極めて野心的な大工事だ。だが、約23万人もの人手を投じたにもかかわらず、台地の地盤が予想以上に固く、貫通させることができなかった。


平安京の造営ではこれを教訓とし、地盤の安定性や排水性を慎重に見極めた。遷都先の葛野は、北から南へ緩やかに傾斜しており、水が自然に流れる水はけの良い扇状地だったことが都市建設の大きな決め手となったと言われる。 また、大阪で実現できなかった運河ネットワークを平安京では完璧に実現。琵琶湖や淀川を通じて運ばれてくる資材や食料を、舟で都の奥深くまで運び込めるようにした。


こうした「水のインフラ」と碁盤の目の道路網からなる平安京の枠組みが、1200年たった現代の京都市でほぼそのまま使われているのは、すごいとしか言いようがない。


和気清麻呂による大和川付け替えの名残りと言われる「河底池(こそこいけ)


※記事の情報は2026年6月4日時点のものです。

【PROFILE】
三上美絵(みかみ・みえ)
三上美絵(みかみ・みえ)
土木ライター。1985年に大成建設に入社。1997年にフリーライターとなり、「日経コンストラクション」などの建設系雑誌や「しんこうWeb」、「アクティオノート」などのWebマガジンなどに連載記事を執筆。一般社団法人日本経営協会が主催する広報セミナーで講師も務める。著書に「かわいい土木 見つけ旅」(技術評論社)、「土木技術者になるには」(ぺりかん社)、共著に「土木の広報」(日経BP)。土木学会土木広報戦略会議委員、土木広報大賞選考委員。
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