どぼく偉人ファイル
2024.07.11
八田與一|どぼく偉人ファイルNo.15 土木大好きライター三上美絵さんによる「どぼく偉人ファイル」では、過去において、現在の土木技術へとつながるような偉業や革新をもたらした古今東西のどぼく偉人たちをピックアップ。どぼく偉人の成し遂げた偉業をビフォーアフター形式でご紹介します。第15回は、1920年代の日本統治下での台湾で、烏山頭ダムなどを建設した八田與一です。
Before:干ばつと塩害、洪水に苦しむ台湾の平原
台湾南西部の嘉南(かなん)平原には、15万haという広大な田畑が開かれていたが、灌漑(かんがい)設備が十分ではなく、日照りが続くとたびたび干ばつに苦しめられていた。しかも、沿岸部では土に塩分が多く含まれ、植物が栽培できないうえに、飲み水も足りない。いっぽうで、雨期になるとたびたび豪雨に見舞われ、すぐに洪水になってしまう。
台湾総督府の土木技術者だった八田與一は、こうした状況から台湾の人々を救うため、大がかりな土木工事の計画を立てた。工事が始まった1920(大正9)年当時、台湾は日本が統治していたのだ。
After:ダムと水路が整備され緑豊かな大地になった
工事は大きなダムをつくり、ダムから南北へ給水路を張り巡らせるとともに、田畑からの排水路を川や海へつなぐものだった。
10年にわたる大工事の結果、1億5,000万tの貯水量を誇る「烏山頭(うさんとう)ダム」をはじめ、1万6,000kmの水路や水門、堰(せき)、水路橋、発電所などが完成。これらの灌漑施設は「嘉南大圳(たいしゅう)」と呼ばれるようになった。嘉南は地域名、大圳は「大きな用水路」という意味だ。
大干ばつに苦しめられた台湾の大地は、こうして緑豊かな田畑に変わった。
八田與一のここがスゴイ! ~ミカミ'sポイント~
Point1:信念を持って新しい技術の採用を進めた
八田は烏山頭ダムの工事に、「セミハイドロリックフィル工法」という特殊な工法を取り入れた。ダムの堤体の中心部をコンクリートでつくって粘土で覆い、その上に盛った土砂に高水圧で水をかけ、細かな土砂を下に沈めて堤を完成させるものだ。世界でもほとんど実績のない工法だったため、周囲の人々は心配した。しかし、八田は綿密な調査に基づき、台湾は地震が多いこと、この地域の土が粘土質であることから、信念を持ってこの方法が最適だと考えた。
また、八田は積極的に大型の機械を取り入れた。当時、大変高価なものであったが、人力だけで行うより格段と工事が速く進む。その後、土木工事の機械化は急速に発展していったが、烏山頭ダムの工事はその先駆けとなった。
Point2:働く人を大切にし、現地の人々に慕われた
八田は工事に携わる人たちが安心して働けるように、従業員宿舎を整備した。住居だけでなく商店や学校、病院、プール、テニスコートまでつくったという。八田自身も家族を連れてこの街で10年間暮らした。
工事中には、何度か不幸な事故が起こってしまった。八田は嘉南大圳が完成するとすぐに、犠牲者を慰霊する碑を立て、日本人と台湾人を区別せず名前を刻んだ。嘉南の人々は、八田の人柄を慕い、またその功績に感謝して、烏山頭ダムを見下ろす丘に八田の銅像を立てた。
その後、第二次世界大戦のさなかに、八田は灌漑施設をつくる調査のためフィリピンへ向かう途中で、乗っていた船が撃沈されて命を落とした。嘉南の人々はその死を悼み、銅像の近くに八田夫妻の墓をつくり、今もなお供養を続けている。
※記事の情報は2024年7月11日時点のものです。
- 三上美絵(みかみ・みえ)
土木ライター。1985年に大成建設に入社。1997年にフリーライターとなり、「日経コンストラクション」などの建設系雑誌や「しんこうWeb」、「アクティオノート」などのWebマガジンなどに連載記事を執筆。一般社団法人日本経営協会が主催する広報セミナーで講師も務める。著書に「かわいい土木 見つけ旅」(技術評論社)、「土木技術者になるには」(ぺりかん社)、共著に「土木の広報」(日経BP)。土木学会土木広報戦略会議委員、土木広報大賞選考委員。