2026.09.16
石川栄耀|どぼく偉人ファイルNo.29 「どぼく偉人ファイル」第29回は、戦後の焼け野原だった新宿に、日本最大級の歓楽街・歌舞伎町の骨格を描いた都市計画家、石川栄耀(いしかわ・ひであき/通称えいよう)です。地元住民が立ち上げた復興計画を行政側から後押しし、街の名付け親にもなった石川の仕事を、ビフォーアフター形式で紹介します。
文:三上 美絵(ライター)

写真提供:渡邉耕〈えいよう会代表幹事〉
Before:焼け野原の新宿で町会が再生の道筋を模索
第二次世界大戦末期の1945(昭和20)年4月、空襲によって東京・新宿駅周辺の一帯は壊滅的な被害を受けた。当時の角筈(つのはず)一丁目北町(現在の歌舞伎町)も、住宅や学校がことごとく焼け落ち、一面の焼け野原となった。
戦災直後は誰がどの土地を持っているのかさえ曖昧になっていたうえ、この地域はもともと複数の借地権者が入り組んでいた。終戦後の復興期に個々の権利者が自由に建物を建ててしまえば、戦前以上に区画が入り乱れ、まとまりのない繁華街になる恐れがあった。
このとき動いたのが、地元の町会長を務めていた鈴木喜兵衛(すずき・きへい)だ。観光や娯楽を軸にした街づくりこそ戦後日本の進む道だと考えた鈴木は、劇場や映画館を集めた一大興行街を目指し、地権者をまとめて借地権を一本化する「復興協力会」を組織した。
だが、民間だけの力では、道路の付け替えや区画整理を正式に進めることはできない。理想の将来像を実際の街として機能する形に落とし込むには、行政側の技術と権限を持つ人物の関与が欠かせなかった。
After:区画整理と町名の提案で「歌舞伎町」の骨格をつくる
鈴木らの計画に応じたのが、当時東京都の都市計画課長を務めていた石川栄耀だ。石川は鈴木と打ち合わせを重ね、この地区を理想的な娯楽センターとして実現させる方向で区画整理を進めていった。計画では歌舞伎座の移転を見込んでいたことから、新しい繁華街にふさわしい地名をという声が住民の間で上がり、石川の提案によって「歌舞伎町」という町名が誕生した。
街づくりにあたって石川がこだわったのは、人が自然に集まり、足を止める「広場」を街の核に据えることだった。大通りの正面に劇場と広場をセットで配置し、歩く人の視線が自然と向かうよう設計したのも、その表れだ。石川は欧州視察で得た知見から、「広場は市民が交流する場であり、文化的に成熟した都市の象徴になる」という考えを強く持っていた。
歌舞伎座の誘致は頓挫したものの、広場を軸にした骨格は生き続けた。1956(昭和31)年には新宿コマ劇場が開業し、街は演芸場、映画館、飲食店が集積する大歓楽街へと育っていく。焼け野原から十数年で、歌舞伎町は東京を代表する繁華街のひとつへと姿を変えたのだ。
2025年に閉館したアルタ(当時・二幸)屋上から撮影した1950年代半ばの歌舞伎町。中央奥に見えるのが建築中のコマ劇場(画像提供:新宿歴史博物館)
多くの人で賑(にぎ)わう現在の歌舞伎町 ©一般社団法人新宿観光振興協会
石川栄耀のここがスゴイ! ~ミカミ'sポイント~
Point 1:東京全体を見据えた戦災復興プラン
石川が手がけたのは歌舞伎町だけではない。東京都の建設局長として、戦災を受けた東京全域の復興都市計画を統括する立場にあった。そのプランは、幅の広い道路網と緑地帯、公園を環状に巡らせ、街全体に余裕のある空間を確保するという、当時としては野心的な構想だった。
ただし、戦後の財政難やGHQの方針もあって、このプランの大部分は縮小や中止を余儀なくされた。今も文京区に残る環状3号線の桜並木や麻布十番の広場、高円寺駅前広場、渋谷の宮下公園などは、実現にこぎつけた貴重な事例だ。商店街の復興こそが都市の復興につながるという信念のもと、歌舞伎町や麻布十番のような繁華街の区画整理を新宿・池袋などの副都心と同格に扱い、優先的に進めたことは、大きな成果だといえる。
Point 2:盛り場に価値を置き、人間生活を起点に都市を組み立てる
石川が都市計画に興味を覚えたきっかけは中学3年生のとき、地理学者で「景観論」の先駆者・小田内通敏(おだうち・みちとし)の「趣味の地理、欧羅巴」に出合ったことだった。当時のヨーロッパの都市をいきいきと描いた同書を評し、石川は「地理という形式を通して風土に即した人間生活を『考え』、『味わう』ことを教える本だった」と回想している。
内務省の都市計画委員となりイギリスを視察した石川は、自ら手がけた名古屋都市計画案を都市計画家レイモンド・アンウィンから「人の生活が感じられない」と指摘されてしまう。このひと言をきっかけに、機能や効率だけを追うのではなく人々の暮らしや賑わいを軸にした都市計画へと考えを転換していく。
学生時代から文学青年だった石川は趣味の幅も広く、油絵やギター、スポーツをたしなみ、落語をこよなく愛した。自宅のあった目白では、毎月「文化寄席」を主催するなど、肩書きを超えて人を集め、楽しい場をつくることに長けていた。街の中で人がどう過ごし、何を楽しむかという視点を肌感覚で持っていたからこそ、盛り場や商店街、広場といった「賑わいの空間」の価値を見抜けたのだろう。
こうした暮らしの単位を「生活圏」という考え方として整理し、地域計画や国土計画へと発展させたことは、戦後の首都圏整備の土台にもつながっている。机上の図面ではなく、そこに住む人の生活感覚を起点に都市を組み立てようとした姿勢こそ、石川栄耀という都市計画家の最大の個性だった。
※記事の情報は2026年9月16日時点のものです。

- 三上美絵(みかみ・みえ)
土木ライター。1985年に大成建設に入社。1997年にフリーライターとなり、「日経コンストラクション」などの建設系雑誌や「しんこうWeb」、「アクティオノート」などのWebマガジンなどに連載記事を執筆。一般社団法人日本経営協会が主催する広報セミナーで講師も務める。著書に「かわいい土木 見つけ旅」(技術評論社)、「土木技術者になるには」(ぺりかん社)、共著に「土木の広報」(日経BP)。土木学会土木広報戦略会議委員、土木広報大賞選考委員。






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